片っぽう3

引き出しで飼育しておりましたコオロギの全滅に、嫁入り前の私はただただ困惑を募らせ不様にあたふたするばかりでした。もはや打つ手なしと諦めの想いに駆られ、私は旅に出る決心を致しました。各駅停車の汽車に揺られ、あてどもなく隣駅にて下車しますと、駅前の薬局に何らかの予兆を感じた私は店内に駆け込むとぐるりを見回し洗剤漂白剤防虫剤各種を購入し、いそいそと小走りで再び汽車へ乗り込み家へバックホーム致しました。つまり薬を買ったのです。自宅にて私は先刻購入した洗浄薬剤各種を風呂桶に投入すると、その薬品汁にてビニールスリッパを無心にて完膚なきまでに磨き磨き磨き抜いたのであります。すると薄汚れ羽虫の体液まみれだったスリッパが新品にも勝るべく光沢を発し、あらゆる呪縛から解放されたが如く凜とした趣にて、輝き放つ後光を纏いなんとも穏やか且つ健全な薄笑いを浮かべておられるのです!思わず私はその場にひれ伏し落涙しスリッパ様を拝み倒し、ひとつの、我唯一の疑問を投じました「毒は、中和されたのでありましょうか?」依然として
スリッパ様は無言でしたが、私にはかすかに頷いたと見えました。「本当でしょうか?」一瞬スリッパ様はむっとした様なお顔になられましたが、今度ははっきりと大きく頷いたので私は確信を持ち「ついに、毒は中和されたり!」と絶叫申告したのです。ああうれしや!風呂桶の薬品汁を家裏の丘陵に流し終え、私は新鮮なコオロギを素手にて(連日の鍛練にてもはや私は熟達した敏腕羽虫捕獲手を自負しております)両手いっぱいに捕まえ、初恋の様な心持ちで心音は早鐘を打ち(つまりとってもわくわくしていたのです!)、掌一握りの羽虫を天高く掲げ、大きく振りかぶると思い切りスリッパ様にぐい!ぐいぃ!ずぐ、ぐずいぃ!とコオロギを押し込め、それでもなお押し込め、腕力の限界にて骨が軋むにも構わず、ぐいい!じゅぐい!ずゅぐずぃ、ぃぎぎいぐゅ、ぎいゅずぐぐい…!とした刹那、スリッパ様が哀れにも裂け、亀裂から羽虫がぞば、ずざばと飛び散り部屋壁に死骸がだっぺりと張り付き、羽虫の体液にて部屋は薄ぼんやりと霧に霞んでおりました。私
はあまりの突発性に呆然とし、永劫とも思える時間をじっとじっとたたずんでおりました…。嫁入り前の無学な私が『圧力』を学ぶのは、それから半年も経ってからのことになります。了