名文紀行12

●生れてはじめて算術の教科書を手にした。小型の、まっくろい表紙。ああ、なかの数字の羅列がどんなに美しく眼にしみたことか。少年は、しばらくそれをいじくっていたが、やがて、巻末のペエジにすべての解答が記されているのを発見した。少年は眉をひそめて呟いたのである。
「無礼だなあ」
●おかしいか。なに、君だって。
●こう書きつつも僕は僕の文章を気にしている。
●ああ、小説は無心に書くに限る!美しい感情をもって、人は、悪い文学を作る。なんという馬鹿な。この言葉に最大級のわざわいあれ。
●どうせポンチならよいポンチ。ほんとうの生活。ああ、それは遠いことだ。僕は、せめて、人の情にみちみちたこの四日間をゆっくりゆっくりなつかしもう。たった四日の思い出の、五年十年の暮しにまさることがある。たった四日の思い出の、ああ、一生涯にまさることがある。
●嘘は犯罪から発散する音無しの屁だ。
●人は死に、皺はにわかに生き、うごく。うごきつづけた。皺のいのち。それだけの文章。
――太宰治『晩年』より