名文紀行34(追悼)

雨ニモデカケズ
風ニモデカケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマイル
ヒヨワナカラダヲモチ
慾ハアルガ
決シテ儲カラズ
イツモ絶版ヲオソレテイル
一日ニ原書四頁ヲ
スクナカラヌ味噌ヲツケテ訳シ
アラユルコトヲ
ジブンデハナニモワカラナイノデ
ケヤキバデゴマカシ
ソシテワスレル……
サウイフモノニ
ワタシハナリタクナカッタ
フィリップ・ホセ・ファーマーの『異世界の門』というSFを訳したときのこと。ここには主人公の兄弟姉妹が八人も登場するのだが、brother、sisterとしか書いていないうえに、前後関係をいくら調べても、だれが年上だか年下だかわからない(そもそも人間ではなく、不老不死の生物なので、年齢なんて関係ないのである)。といって、これをそのまま日本語に移すと、だれがだれなのか、区別がつかなくなってしまう。そこで、えいっ、とばかり、独断と偏見でむりやりに長幼の序をつけて訳してしまった。何年かして、同業の岡部宏之さんとなにかの話の折に、ロジャー・ゼラズニイの『アンバーの九王子』というSFで、岡部さんもまったくこれとおなじ経験をされたことを知り、ふたりで手を取り合って泣いた。
コードウェイナー・スミスという作家に、『ノーストリリア』というSF長篇がある。ノーストリリア人というのは、みんなテレパシー能力の持ち主なので、彼らが言葉を使わずに聞いたりしゃべったりするときは、hearとspeakの代わりに、hierとspiekという単語が使われる。読んでいるうちに、翻訳者の宿命か、これをどう日本語に訳したものだろう、と考えはじめた。やがてひらめいたアイデア。よし、漢字でいこう。耳を使わずに「聞」くのだから、門構えの中を心にすればいいんじゃないかな。得意になってその字を書いたら、一目見たとたんにモダエた。それでもこりずに、じゃ、耳偏に心ではどうだろうと試してみたら、もっとハズカシクなった。
●「ドブサラダ記念日」より
原文の味が出てるとか出ないとか言ってくれるじゃないかと思う

平積みのだれも買わないわが訳書つまらなそうに並ぶ店先

アシモフハインラインが好きでしょう」決めつけられてそんな気もする
●ひとむかし前、ウェスト・コースト・ジャズにしびれていたころ、はじめてシェクリイの短篇集を読んで、なんとなくショーティ・ロジャーズの軽快で明るい演奏を連想したことがあった。このでんでこじつければ、ブラッドベリスタン・ゲッツハインラインアシモフはエリントンとベイシーにあたるだろうか。とすると、この『ベスター/ディック集』は、さしずめチャーリー・パーカーの最高傑作とマイルス・デイビスの初期の代表作を片面ずつにおさめた歴史的名盤だ。
●『チェルシー・ガールズ』を見ました。アングラ映画作家アンディ・ウォーホルの代表作。二本の16ミリフィルムを同時に映写する実験作品だというので、とびついたのです。/だが、三時間半かかって「シャラップ」と「オー、ファック・ハー」の二言しか聞きとれなかったぼくは、完全に聴覚をそがれて、まるで自分が『酢豆腐』の若旦那であるような(にしちゃ、すこし古ぼけているけど)うしろめたい気分で、このふしぎな「新しい退屈」に耐えなければなりませんでした。
●絶版無情(「雨の慕情」のふしで)

みんなが忘れたあの本も
訳したわたしは覚えてる
長い月日のたつまえに
本屋の棚から消えていた
ないから売れない
ないから売れない
いくら待っても やはり売れない
再版刷れ刷れ もっと刷れ
私の印税 もって来い
再版刷れ刷れ もっと刷れ
私の印税 もって来い
――浅倉久志『ぼくがカンガルーに出会ったころ』より