ド淫乱

あの女、もの欲しそうな目つきをしてやがる。きっとド淫乱にちがいない。あのマダム、花壇の花に水をまいてやがる。きっとド淫乱にちがいない。あの男子学生、自転車に乗ってやがる。きっとド淫乱にちがいない。あの鳩、うろうろ歩き回ってやがる。きっとド淫乱にちがいない。あの店、ランチタイムだってのにぜんぜん客が入ってない。きっとド淫乱にちがいない。あの店、本日定休日となってやがる。きっとド淫乱にちがいない。あの踏切、なかなか開きやがらねえ。きっとド淫乱に違いない。あのバス、人を乗せてやがる。きっとド淫乱に違いない。乗客も全員、きっとド淫乱に違いない。あの看板、落ち着いた色づかいで描かれてやがる。きっとド淫乱に違いない。このコンクリート、硬い。きっとド淫乱に違いない。ああ腹が減った。俺がド淫乱だからだ。

「先生、本当にこれで良かったんでしょうか?」「『全感覚ド淫乱化手術』のことかね?」「ええ…術後の経過は良好のようですが」「ああ。だがあの手術は彼が自ら望んで行ったのだ。彼は自ら望んでいたのだ。きっと満足しているだろう」

ド淫乱な俺は満足している。きっとド淫乱だから満足しているんだろう。それとも周りがド淫乱ばかりだからだろうか。あの手術をしてくれたド淫乱な医師には感謝せねば。それにしてもこうド淫乱ばかりだと時々ド淫乱が分からなくなってくる。もしかしてただの淫乱でしかないのでは?そもそも淫乱ですらないのでは?いや違う。俺はド淫乱だと認識しているし事実あらゆる事物がド淫乱であるのだ。あるべきであるはずなのだ。俺の感覚は混じり気なしの感覚を確かに伝えているはずだ。だがやはり少なからず懸念はある。それは本物なのだろうか、と。この感覚は本物のド淫乱なだろうか?本物のド淫乱とは何だ?この思考はド淫乱によるものなのか?ド淫乱によってなさるるべき思考をなさるべき過程によってなしているのか?きっとド淫乱だからに違いない。本当にそうか本当なのかこれがド淫乱なのか?ド淫乱そのものに対する疑問をもつことはド淫乱なのか?ド淫乱じゃない奴なら答えられるのか?ド淫乱じゃない奴はいるのか?そいつの自我は己の内にあるド淫乱を否定している
のか?そうであってそれはド淫乱なのでは?「あなたはド淫乱ですか?」と聞かれ「いいえ」て答えても結局はド淫乱なのじゃないか?ド淫乱にしかなり得ないのだ。だが否定するということはどこかでド淫乱でないと思っているかあるいは言い聞かせており、それを聞いて一瞬でも考慮した俺自身も相手の意見を少なからず認めていることにならないだろうか?その一瞬の戸惑いにド淫乱は存在するのか?仮に「はい」と答えても俺は何の疑いもなく相手の意見を受け入れるだろうか?ここでの躊躇は躊躇そのものがド淫乱なのか?それをド淫乱と言えるのか?俺の認識しているド淫乱とはなんだ?俺のド淫乱は本当にド淫乱なのか?これを読んでる君はきっとド淫乱に違いない、よな?