犬マウスの悲哀

この作品のメタファーが『生への問い掛け』であることは想像するに容易いだろう。冒頭に述べられる犬マウスのキャラクター、最後までお読みになった方にはお分りだろうが、この作品のなかで犬マウスのキャラクターが活きることはなく、犬である必然性も鼠である必然性もなく没個性の白痴に等しい生物として扱われている。これには多くの現代人に見られる所在なさ、自己の喪失を的確に表現しているといえよう。文鎮もまた本来の用途とはかけ離れた不遇な翻弄によって異質な巣穴に運ばれ、見届ける者もなく、やがては朽ちゆく運命にある。ここにも活きられなかった『生』が見受けられる。そもそも文鎮はゴミ溜めに捨てられている事からも、二重に『活き』られなかった事を示している。ここでは一文、句読点ひとつひとつまでにも生への渇望がむなぎ…漲っている。犬マウスと文鎮の出会いがゴミ溜め、というのにも凡庸にして多くの作家達の心を捉えてきた一種の秩序、相互性が読み取れるが、ややシニカルなアイロニーに内包されているため、その意図は一読には判別し難い
。そして後半の描写を省いた犬マウスの死により、この作品のテーマがよりいっそう明確となる。激情を内に秘めた静謐の極みといえるラストには、もはや言語を絶した優しさと濃密な慈愛が息苦しいまでに満ち満ちている。まるでイェーツの詩を想わせる、と揶揄される……もういいや。