名文紀行32

●挫折の原因として見逃せないのは、元々社版のSFの翻訳の、あまりのお粗末さです。じっさい、ある程度以上の評判になり、二十冊も連続刊行された海外小説シリーズで、およそこれほどの誤訳悪訳珍訳ぞろいの欠陥翻訳を並べたものは、他に類をみなかったといっていい。/SFについて、殆ど何の知識もなく――いや、はじめてSFにお目にかかったような、何でも屋の二流翻訳家が、ろくに調べもせずSFをいじくりまわし、一知半解のまま翻訳したのだからたまったものではない。SF用語は無造作に一般用語に置き換えられ(たとえばある本ではray-gunがピストルとair carが車と訳されたため「ピストルで足もとをなぎはら」ったり「車が市の上空を旋回」したりすることになった)天文学、物理学、生物学用語には通りいっぺんの訳語があてがわれ、その結果、意味も通りにくい文章ができ上がるというていたらくとなった。
SFマガジンは、2号、3号と出た。6号が出たときも、潰れはしなかった。
だが内情は、文字通り火の車だった。営業部と取次店には毎号いじめられた。返本が五割を越したり辛うじて切ったりする有様では社内での評判もまた芳しくなかった。そんな苦渋の中で、ぼくは全力投球をつづけた。全篇の解説を書き、何本ものコラムを書き、昼食時には喫茶店のテーブルで翻訳をすすめた。時には翻訳をなおし、――締切ぎりぎりで受けとった百枚もの翻訳の出来の悪さに仰天して、自ら別の作品を二晩徹夜で訳しなおすという離れ業をやってのけたこともあった。
毎号の企画はぎりぎり最後まで未定になった。朝から晩まで、暇さえあれば作品探しを続けて少しでもよりよい作品を見つければ、躊躇うことなくそれと振り替えようとしていたからである。それはじっさい、文字通りSF浸かりの毎日だった。SFを読むことはもう楽しみではなく、とうに苦痛になっていた。自分の好みさえ、極端なSF浸かりの中では判別しがたくなってしまう。ぼく自身が好きか嫌いかよりも、SFマガジンの読者が気に入るかどうかを、つねに優先させて考えなければならなかったからだ。/約束の締切りには忠実なぼくだったが、この時期にはもう物理的に不可能になっていた。睡眠時間はぎりぎりまで減らしてしまったし――その頃ぼくは寝床ではほとんど寝なかった――それ以外に減らせる余剰時間は全くなかった。(当時のぼくは酒も飲まなかった!)SFは、この時期すでに、ぼくの生活を占有しはじめていたのである。
ぼくがSFに、後戻り不可能なところまでのめりこんだのは、おそらくこの時期だ。ぼくは、ぼく自身の犠牲においてSFを――少なくともSFへのファイデリティ(忠誠)を獲得したのだ。SFの問題を自分の問題とし、SFへの誤解や、無理解や、偏見や、不当な待遇を自分へのそれと感じ、それをはね返すために全力をつくす習性を身につけてしまったのである。
●SFの世界では、月は、すでにかなり以前から、〈月並み〉な舞台として敬遠されがちだった。
●知ったかぶりの無責任な発言ほど、まだまだ不安定なSF界にとって有害なものはない。腹がたつのはそのせいなのだ。悪口の一つもいわなければどうにも腹が癒えないのはそのせいなのだ。このブタめ!(中略)
ブタは結びにいう。
『SF界はフェスティバルで元気を出すばかりでなく、ここらで脱皮し、奮起せねばならぬ』
よせやい。ああ、よせやい。他人事ながらこっちの顔が赤くなる。フェスティバルで張り切っているのは、お祭り好きの無邪気な人たちだけなんだよ。本物のSFは、そんなところでではなく、もっと地についた諸々の文学現象の中に、着々と沈潜しつつあるんだよ。
ブタ君きみに忠告する。きみはうんうん気張るだけでなく『ここらで脱プンしてフン死せねばならぬ』

いま読み返すとまさに赤面の至りである。
●一九六三年が暮れ、新年が明けても、まだ全く刊行予定が定められないことに、ぼくはかなりいらだっていた。どうしても、四、五月頃からは出発したかった。
この頃を書くために、ぼくは古いSFマガジンのファイルを引きだしてみた。そして思わず声をあげて笑いだしてしまった。一九六四年四月号(二月刊)には〈四月より刊行予定〉と銘うったシリーズの広告が載っていた。それが、六月号には〈五月より刊行予定〉七月号には〈六月より〉八月号には〈七月より〉九月号には〈八月より〉十月号には〈九月よりいよいよ刊行〉と、ほぼ一ヵ月ずつずれながら、半年のあいだ執念ぶかくつづけられていたのである。そのときのぼくの、まさに〈執念〉と化したシリーズ刊行へのあせりを、これほど雄弁に物語るものは、ほかにないかもしれない。
――福島正実『未踏の時代 日本SFを築いた男の回想録』より