名文紀行35

●「色々間違えてきたけれど、更に間違えることくらいしかできることはないみたいだね」
●これは本質へは決して辿りつけないという話ではないし、一度間違えた者が二度とそれを取り戻せないという話でもない。ただ変転だけが続いていき、同じところへ戻ることはなく、回り続けるものがいかさまである。何かが同じ場所に戻るということは、本当に全てが元に戻るということを指している。何かが同じところに戻ったとして、どうして本人だけが超然として、何かが戻ったなどと鹿爪らしく思えるのか。何かが戻る以前から何かが戻って来たと考えていた状態へと戻るのか。それは本当に戻ったりとり返したりした状態と呼んでしまっていいものなのか。継続と脱線だけがそこにあり、終局はなく消滅もない。わかったような話はそれを言い出す者が何者なのかに不審があるし、わからない話は何となくわかったような気持ちになるだけ疑わしい。
●生活が簡潔だからといって、周囲の風景までもが小綺麗だとは限らない。誤った単純さは途方もない面倒臭さを速やかに生み出すものだし、面倒だからといって複雑だとは限らない。複雑なものには簡潔にまとめられるかも知れない余地があり、入り組んでいるものは、そのまま全部を記すしかない。この間には途轍もなく大きな違いがある。楽譜には全ての時間経過が記されており、舞踏譜にしても同様であり、僕は両者を嗜まない。本は読めても映画は観られず、楽譜を読めても黙って音楽を聞くことはまどろっこしい。僕たちはただ気ぜわしく単純であろうとしており、そしてそれ故にやりすぎている。
●僕にはやりすぎを咎めようという気持ちが全くない。過ぎたるは猶、及ばざるが如し。遺憾なことです。それは大変に遺憾なことだと僕も思う。人間に触れてはいけない領域に触れることは遺憾なことです。この一文には何だか意味のわからないところがあり、禁止は禁止を実効的に課す機構を備えぬ限り、無効化できることが知られている。そんな奴は俺が直接ぶん殴りに出かけていくという勇敢な方がいたとして、直接殴れる人数は千人に届けば上出来だ。やりすぎは止めることができないので、むしろやりすぎの範囲を拡大するしかないという派に僕は属している。やりすぎて猶辿りつけないやりすぎへ向けて、僕らは加速していくだろう。それが崩壊を呼び寄せる一番手っ取り早い手段だから。人間が触れることのできない領域に触れることは確かに遺憾極まりない。人間に触れられぬ領域があると決めつけてしまうこと自体に対して。どこかの預言者が戯言を気儘に公表したとして、預言された事態を進めようとしたり留めようと日々活動している人々の立場はどうなるのか。
僕は崩壊を積極的に願っているわけではない。ただそうなるのだろうなと思っている。僕らがどこかでやりすぎの線を踏み越えてしまったとき、誰もその向こう側のことを考えてなどいませんでしたという事態を僕は、願い下げる。
万能細胞。万能組織。万能器官。僕らは何に変形していこうと構わない。操作は常に膨大な規模で外側に配されており、僕たちは自分の記憶の中で悶え苦しみ笑い合う人々が増大するにつれ、単純な文字の並びへと切り詰められていく。小さな本を幾通りにも読み出すには、読む側に特殊な技芸が要請される。巨大な本をただひたすらに読み続けるにはただ根気だけがあればよい。いつまで読んでも終わらぬ本に、精妙な道理を仕込むことができるのかどうか僕らは知らず、もしかしてそこには文字しかない。
――円城塔烏有此譚」より