レッカー2

わずか10分が100年にも200年にも感じられた。回りの老人達は眠ったまま死んでみるみるひからびていった。もともと痩せていた老人も太り気味の老人もみんなひからびてミイラになった。保彰はなんだかわからずただ黙って眺めていた。看護士にだってできない事はある。むしろできない事の方がずっと多いんじゃないだろうか?ああタバコ吸いてえ。ああタバコ吸もうねえ。保彰は三つ子だった。信彰は死んでいた。ハンドルを握って死んでいた。エレベーターに閉じ込められている保彰と直線距離にしてわずか15メートル離れた場所で死んでいた。死んで光と融合して今は光そのものだった。信彰は現在、光だった。その光に向かって梓は少しずつ少しずつ少し近づいていたが急に止まった。急に止まった。どこからか自分を呼ぶ声がする。ああこれは慶太の声だ弟の慶太の声。だが何を言っているのかわからない。大声で叫んでいる泣きそうな声。何?はっきり言ってよ。はっきり。はっきり言って慶太はもう自分が何を叫んでいるのかわからなかった。うまく言
葉にしようとしたが感情に押し潰されてはっきりした言葉にならなかった。それでも叫んだ。こんなに叫んだのは生まれて初めてかもしれない。慶太は覚えていないが慶太が生まれて数か月後、慶太は今以上に叫んでいた。暗闇の中で泣いていた。理由は誰も知らない。闇に怯えていたのかもしれない。ひとりっきりの闇の中。だが本当は慶太ひとりではなかった。少し離れた場所に姉がいた。姉の梓もその声は聞いていたが耳を塞いで黙っていた。耳を塞いでも泣き声が聞こえてきたのでイライラしたが我慢した。目をつぶって真っ暗な思考を無理矢理マヒさせた。マヒしていなかった。むしろどこか覚醒していたが黙ってやり過ごすそうと思った。黙ってればそのうち終わる。早く終われ。10分もすると泣き声は止んだ。終わった。赤ん坊の様子を見に行くと眠っていた。うさ晴らしに梓は眠っている赤ん坊の口を押し開け、そこに自分の唾を垂らした。唾はびろーんと伸びてゆっくりゆっくり目標到達地点に近づいた。目標到達地点に落ちた。イェイ!唾が赤ん坊の口に入ると梓は満足
した。慶太が自分の所有物になったような気がした。梓はにっこり笑った。誰も知らない所有物。闇の中。これは私のもの。物。そんな『物』が私の耳元でぎゃーぎゃー叫んでいる。うるせえ。ああうるせえ。あん時と同じだ。また唾をの飲ませれば黙るだろうか?いいや唾で黙ったわけじゃない。唾は所有物にする証だ。唾の契約期間が切れたんだろうか?唾の契約期間?ああ馬鹿だ馬鹿の発想だ。唾に契約期間なんてない。でもそれがずっと正しいと思っていた。今でも正しいと思う。偏見だろうか?偏見は続けていくうち常識になる。常識は正しい偏見だ。本人がそう思ってる限り正しい。今もそう思ってる。三段論法くそくらえ!三段論法?何?うんざりしてきた。ああうんざり。うんざり。もう嫌んなる。嫌。こんな仕事くそくらえ。辞める辞める辞めるぜ辞めるぜ。和彰は辞める事だけ考えていた。もう辞める。今日で仕事も終わりだ。今日で終わり。レッカーに続くレッカーだけのレッカーの日々も終わりだ過ぎ去りしレッカーの日々!自分をレッカーするんだ今日限りで、と和彰は
思って軽く微笑んだ。和彰は三つ子だった。保彰は今、兄弟の車に台車で引かれてレッカーされている。ああ寒い腹が減った。あれ?エレベーターにいたんじゃなかったっけ?俺は老人ホームのエレベーターにいた。なぜだろう?今はレッカーされている。レッカーされている。