名文紀行31

●「修業」と朝ちゃんが言って、私はびっくりしてぶふーと笑う。またつられて笑う朝ちゃんの口からよだれがちろっと落ちて後部座席の真ん中に座る唯士の肩に当たる。「どぅわー」と唯士が言い、朝ちゃんが「あははごめーんべふふ」とさらに笑う。
●玄関で史也を見た私には志帆ちゃんと学芸大付属中と鎌倉と車に乗ってて脇から出てきた宅配便のトラックにどかんと両親の離婚と母の再婚があり、リビングの三人を見たときの私にはギリシャ旅行と二度の流産と熊本のホテルでクローゼットの中にたたずむ白い女の子三人の幽霊ギャー!と名古屋と上岡秀一があったのだ。
人生は短く、軽く、経験は浅くて全てが思い出にはならず、思い出は少ない。
●部屋も人生もゆっくり悪くなるからどこまで酷くなってるんだか判断がつきにくい。
●「僕、昔歌詞間違えて憶えてたんすよ」と言って濱田淳は歌い始める。「ギンギラギンにイゲラ君〜」
僕は笑う。濱田淳にはこういうすっとぼけたところがあるのだ。
「イゲラ君〜生きるだけさ〜」
●僕はアクセルをぎゅぎゅぎゅぎゅぎゅぎゅと踏んでばりばりばりばりタイヤ焦げてスタート松本君はドアを開けて飛び出してあやべ逃がした逃がすかボケ!プリウスはクラウンにずがーんと激突しながらしなやかカーブで金属バット持ってる松本君に襲いかかるが松本君はボンネットジャンプごごんごんまたよけたー!さすが運動選手リアウィンドウがバットでびしゃーんと割れて「何するんじゃボケー!」って「殺すんじゃボケー!」って当たり前のこと訊くなボケー!きぎゅぎゅぎゅぎゅぎゅぎゅプリウスバック天井から松本の背中ボンネットにはじけて正面にすたっとか言って立ち上がるこいつ忍者かよにんにんおらーって僕は駐車場出口に向かって走り始めると「逃げんなうらーっ」って松本バット猛追撃で走りながら僕のプリウスのトランクめった打ちローン!ブレーキウィキキキキッキ松本全力おかま掘りずこーん勢い余って自分が割ったリアウィンドウから後部座席につっこんでくる。僕はバットを奪って運転席を出て後部座席のドアを開けてバットをふるうが松本が後部座席の下
に落ちてるのでうまく当たらずドアへこむ。ぐがーん!ああ俺のプリウース!「やめれやこら!」と松本が僕のプリウスの中で叫ぶが僕はやめない。――舞城王太郎『みんな元気。』より